数珠の歴史

数珠の歴史(55) 後白河法皇の数珠

「この焼き残った木も削って頂き、数珠を作って頂きたいのです」 
 四天王寺辺りの数珠屋の元に訪れてきた若い女性は、少し不思議な化粧をしていました。
「私の名前は阿古丸、後白河院にお仕えしております傀儡(くぐつ)の民でございます」
「傀儡?」
「はい、木偶(でく)、人形を操る者にてございます」
 この頃、洛中に限らず、四天王寺に辺りでも度々見ることがありました。
「それでこの焼け残りの木は何でございますか」
「東大寺が焼け残った後の燃え残りの木でございます」
「東大寺大仏の開眼が迫っており、開眼をされる後白河法皇のために、数珠をお作り頂きたいのです」

 平重衡が率いる平家の軍勢が東大寺の放った火が大仏殿をはじめとする伽藍を灰燼させたのは治承4年(1180)のこと。人々は焼け落ちた大仏殿を見て、末法の世が到来したことをまざまざと知りました。
 数珠屋の娘も焼け落ちた東大寺の跡を実際に見ており、身を震わせたことを思い出しました。焼け落ちる前、数珠屋の娘は度々東大寺の僧侶のために数珠を納めていました。
「たしか、宋から来られた御方が大仏をお造りになられているとお聞きしましたが」
「はい、陳和卿(ちんなけい)様が指揮を執り、大仏がその姿を現し始めており、開眼供養の準備も進んでいます」
 東大寺大仏の鋳造が始まったのは養和3年(1181)のこと。まず造られたのは大仏頭部の螺髪三箇でした。この後、寿永3年(1183)、宋からやってきた商人陳和卿(ちんなけい)の指導の下で鋳造が始まり、まず右手が、さらには頭部の鋳造が行われました。実際の鋳造には陳和卿の弟子の陳仏寿と宋人7人と、草部是助ら河内の鋳物師14人が鋳造にあたりました。

 数珠屋の娘は目の前の焼けた残木を見入りました。焼木は一部切り取られており、芯の部分には、まっさら檜の木肌が見えています。
「切り取った焼木は、運慶様が発願された法華経八巻の軸木としております」
 実は阿古丸、仏師運慶が発願した法華経八巻の大施主となっていました。もちろん後白河法皇の意向があってのことです。
 「承知いたしました。手元にございます宋からの渡来の黒檀、近江の水精を用い、この焼木から造る小玉を四天に用いて数珠をお作りします」

 再興された東大寺大仏の開眼供養が行われたのは文治元年(1185)8月26日のこと。その日は朝から細かい雨が甘露の雨のように降っていました。
 大導師は東大寺別当定遍が勤め、後白河法皇は供養の為に千人の僧が参列しました。
 後白河法皇は手にした数珠を首に掛けると、大仏に架けられた足組を上り、大きな筆を両手で持ちました。この筆は奈良時代、聖武天皇の時代、天竺僧菩提僊那が大仏開眼供養に用いた筆で、正倉院に収められていたものを、今回、大勧進重源の勧めにより用いることになったものです。
 数珠屋の娘もこの開眼供養も立会い、後白河法皇の数珠を見守りました。

※この物語は史実を元にしたフィクションです。
 仏師運慶発願の法華経八巻は第一巻が喪失されているものの、第二巻から第八巻までが京都真如堂にて蔵されており、国宝指定されています。この法華経の奥書には「女大施主 阿古丸」の援助を得て書写されたとあります。
 後白河法皇の肖像は長講堂(京都)に安置されているもので、江戸時代初期の明暦4年(1658)、七条大佛師二十五第を名乗る康知によって造立。近世肖像彫刻の秀作です。

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