数珠の歴史

数珠の歴史(53) 法然の数珠 阿波介が発案した浄土宗二連数珠

 四天王寺辺りの数珠屋の娘は、その日、店棚の中で数珠作りをしていました。昼を過ぎた頃、一人の男が訪ねてきました。
「お聞きするが、あなたが法然上人の数珠を作られた方でしょうか。」
 数珠屋の娘は、この頃、都で極楽往生の教えを説かれている法然上人からの依頼で数珠を作る機会を頂いていました。
「はい、黒谷の法然様とのご縁を頂き、数珠をお作りしました」
「そうか、そなたが数珠屋の娘か。法然上人のお弟子、法蓮坊様に相談したところ、そなたに数珠作りをお願いするのがよいと言われ参った」
 法蓮坊とは法然の弟子の一人。以前、法然上人の夢に現れた善導が持する数珠を作ってほしいとやって来たことがあります。
「法連坊様にはお会いしたことがございます」
「私は阿波介。元々は陰陽師であったが、随分と荒んだ生活を送っていたのだが、後生を思い、法然上人に出合ってからは念仏を日々称えておる。」
「そうでございますか」
「ご存知の通り、念仏の数を数えるのに数珠を欠かせないもの。片手で一連の数珠を繰り,片手で別の一連の数珠を持ち念仏を数えるのだが、数取りがしにくい上に、数珠がすぐに壊れてしまう。そこで、このような数珠を考えてみた」

 阿波介は懐から丸い木の実を繋いだ数珠を取り出しました。その数珠は二連を合わせたもので、片側の数珠のみに親玉から伸びる弟子玉が連なっていました。娘はその数珠の使い方を瞬時に理解しました。数珠を繰りながら、念仏の数取りが簡単にできる数珠です。

「これは素晴らしいお考えの数珠ですね」
「おお、分かって下さったか」
「もちろんですとも」
「では、この数珠を青き玉にて作ってはもらえぬだろうか。法然上人からは、仏の目は青いを聞いておる」
「承知いたしました。丁度難波津に着いた商人から、青い玉を仕入れたところです」
「では頼むぞ。私は四天王寺をお詣りした後、京都に戻る」

 それから二ヶ月ほど経った頃、阿波介は数珠を受け取りにやってきました。
「数珠はできただろうか」
「はい、このように仕上げております」

 娘が綾で包んだ数珠を取り出し阿波介に渡すと「おお、これは美しい」と驚いた様子。そして早速数珠を繰り、数を取りながら念仏を称えました。

「これで一層念仏に励むことができる。早速法然上人にもご覧頂く」

 阿波介は綾に数珠を納め都に戻りました。

 しばらくした後、娘は比叡の山からやって来た法然門流の弟子から「法然上人が阿波介の数珠をいたく褒められた。私にも同じ物を作ってほしい」と聞き、阿波介が考えた数珠の素晴らしさを改めて知ったのでした。

 ※浄土宗独自の二連の数珠は阿波介が考案したものと伝えられています。『法然上人絵伝 巻十九』には次のようにあります。

二念珠をしいだしたるは、この阿波介にてなむ侍る。かの阿波介、百八の念珠をもちて念仏しけるに、そのゆへを人たずねければ「弟子ひまなく上下すれば、その緒疲れやすし。一連にては念仏を申し、一連にては数をとりて、つもるところの数をとれば、緒やすまりて疲れざるなり」と申す。

 この阿波介の数珠をご覧になられた法然上人は「まことにこれたくみなり」とお褒めになったと記されています。

  阿波介はその最後、奥州金色堂で端座し、念仏を称えながら往生したと伝えられています。