数珠の歴史

数珠の歴史(48)五百羅漢の数珠(5) 恵果から空海

 大唐国の都長安の賑わいの中に数珠屋の娘は居ます。

「お釈迦様に出会い、金剛智様と共にインドからインドネシアを経て唐に辿りつき、天台山から長安に来たなんて、まるで夢みたい」
 すれ違う人の中に目の碧い胡人もいます。長安はシルクロードの起点となる街であり、国際都市でした。娘は今日は羅漢に言われて恵果和尚の元に赴くのです。
 恵果は密教僧。胎蔵界の密教を一行から、金剛界の密教を不空三蔵から受け、両部と呼ばれる密教の教えを体現していている僧で青竜寺に住していました。

青竜寺では羅漢が娘の到着を待っていました。
「よく来た。奥の客殿で恵果様がお待ちだ」
たくさんの出家僧が境内地を行き交いますが、ジャワ、ベトナム、インドからの僧侶も居るようです。娘は金剛智との旅の中で、こうした地域を巡ったので、微かにこうした地区の人々の顔立ちが分かるのです。

 客殿の奥には庫裏があり、恵果はそこで娘を待っていました。娘は恵果のまで、手を合わせて深々と体を折り挨拶をしました。

「そなたが、数珠屋の娘か」と恵果は微笑んで娘に語りかけました。その手には娘が金剛智のために作った瑠璃の数珠が掛けられています。娘は驚き、「その数珠は!」と声を上げました。
「そう金剛智様がお持ちだった数珠だ。金剛智様の弟子で法を継いだ不空様がこの数珠を引き継ぎ、さらに私が伝法の際にこの青の数珠を受け継いだ。」

 金剛智は密教における付法の八祖のうち五祖、不空は八祖のうち六祖、そして恵果は八祖のうち七祖にあたる僧。密教の法統を体現している高僧が、娘の目の前に居ます。

 数珠屋の娘は心身を引き締め恵果の言葉を待ちました。

「常にまさに一日四度の念誦の際には数珠を持たなければならない。その数珠には四つの種類がある。一に真言を称える際の数珠、二に金剛の数珠、三に三摩地の数珠、四に仏の教えが宿る真実の数珠である」

 恵果の言葉は娘の心の中で響きました。
「私は近々、空海に胎蔵界と金剛界の伝法灌頂を授けることになる。空海は密教の全てをおまえの国に持ち帰ることになる。今日おまえに来てもらったのは、私が空海に授ける金剛子の数珠を作って欲しいということに加えて、皇帝が帰国する空海へ贈る菩提子の数珠をお望みであり、その数珠を作ってほしいという願いだ」
 娘はすこし混乱しながら、恵果の話を聞いていました。
「日は多くない、必要なものは羅漢に伝えよ。全てのものを揃える。私が持つこの瑠璃の数珠は、お前に授けよう。釈尊、金剛智様と共に旅をしてきたおまえにこそ、この数珠を持つ意味がある」
 恵果は娘を手招きすると、瑠璃の数珠を娘に授けました。
「金剛子の数珠、そして菩提子の数珠のこと、確かに承りました」
 娘は恵果からの数珠作りの命を注意深く聞きながら、一つの数珠の形を思い描きました。
(呪を数える小玉の下に、露の形の玉を付けて留めにするのはどうかしら。そして小珠と露の間に花片のような金具を付ける)

 弘法大師空海が入唐したのは803年(延喜23)。そして早くも805年には恵果阿闍梨から胎蔵界と金剛界の勧請を受け806年には日本に戻ります。

 空海は帰朝するにあたって皇帝より数珠を下賜されます。空海自身はそのことを『御遺告』の中で「皇帝からはこの数珠を私だと思って帰国してほしい。来世でまた会おうという言葉を頂いた」と語っていますが、この数珠は今でも東寺(京都)に蔵されています。その数珠の弟子玉の端には水滴型の露が付けられています。

※唐の皇帝から空海が授かった数珠については「数珠の歴史(4)」をご覧ください クリック

※金剛智(671〜741) 南インドで生まれ、仏教を修める。龍智より密教を授かり、スリランカ、インドネシアなどを経由し唐に入り、唐で密教を弘める。

※不空(705〜774) 中国あるいはインド生まれ。金剛智を師として密教を修め、金剛智の入寂後にインドに渡り金剛頂経系の密教を学び、帰唐後、唐で密教を弘める。

※恵果(746〜805) 唐の人。不空から密教を受け、善無畏の弟子の玄超から胎蔵法を受ける。805年、空海に胎蔵、金剛両部の大法を授ける。