数珠の歴史

数珠の歴史(47) 五百羅漢の数珠(4)唐での金剛智

 金剛智と数珠屋の娘、羅漢達(辟支佛)が乗った船はジャワ(闍婆)を出発して約3年、ようやく大唐国の広州の港に着くことができました。719年(開元7)のことです。広州節度使の計らいにより数百隻の小舟にのった数千人の人々が金剛智の船を出迎えます。こうして、密教は初めて中国に伝わることになります。
(ようやく唐の国に着いた)
数珠屋の娘は深く息をつきました。出発した時には30隻の船団でしたが、広州に着いたのは僅かに一隻、ほかの船は嵐に巻き込まれ難破し、金剛智と数珠屋の娘を乗せた船だけが広州まで辿り着いたのでした。

 広州の節度使は数珠を手に持つ金剛智を「金剛智様、よく唐にそしてこの広州においでくださいました」と迎えました。この日は、中国に密教が初めて正式に伝わった日となったのです。
「ところで、手にお持ちの玉の連なりは何でしょうか」
「これは数珠と呼ばれる密教の法具じゃ。真言を称える時に用いる」
「そうでございますか。羅漢様達もお持ちのようですが、どのようにすれば手に入るのでしょうか。」
金剛智は足を止めると目を後ろに向け数珠屋の娘を見つけると
「数珠屋の娘、こちらに参れ」
数珠屋の娘が金剛智の元に参じると節度使は珍しそうな視線を向けました。
「大和の国から参ったとか」
「そうでございます」
「この娘、釈尊から数珠作りを命じられ、私のために数珠を作った者じゃ」
 金剛智が娘のことを紹介すると節度使は驚いたように目を開いた後に、深く頭を下げ
「娘殿、私のために数珠をお作りください」と願いました。
「承知いたしました」
「娘よ、船にある沈水香を用いて節度使殿ために数珠を作られよ。一週間後にこの地にて法要を行った後、洛陽の都に向かう」

 

 法要の後、金剛智と羅漢達、娘を乗せた船は広州よより沿岸を進み、左に閩(福建省)を見ながら途中数回船泊して台州(現在の浙江省)に着きました。台州では地方長官である台州刺史が金剛智を迎え、刺史の計らいで陸路長安に向かうことになります。

「長安への道中、天台山に参ろうか」
羅漢が数珠屋の娘に天台山行き誘います。
「金剛智様のお許しはすでに頂いておる。その後、杭州の街で金剛智様一行と合流する。杭州から長安までは運河を辿る」
「運河?でございますが」
「そうだ、隋の時代に文帝と煬帝が開かれた船が行き交う水路だ。で、天台山には?」
「もちろんご一緒させて頂きます」
羅漢は嬉しそうに笑いました。

天台山は台州より四日の道のり。天台大師智顗によって開かれた天台山には激しい流れの滝があり「石梁瀑布(せきりょうばくふ)」と呼ばれています。

羅漢は数珠屋の娘を石梁瀑布まで連れてゆくとそこに架かる橋を渡ると平な石に上に結跏趺坐し「わしに倣い、数珠を手繰りながら眼を閉じて呪を称えよ」というと、数珠を円相に持ち呪を称え始めました。

 数珠屋の娘は羅漢を見習い瀑布の飛沫が少しかかる場所で数珠を手に持ち眼を閉じ呪を称えはじめました。

どれほど呪を称えたでしょうか。羅漢の呪が已んだことに気付き、眼を開くとそこにはたくさんの羅漢が居ました。

「えっ?これほどの羅漢様?どうして」

「石梁瀑布は羅漢が示現するところ。娘よ、羅漢のために数珠を作るように。闍婆(ジャワ)で私も数珠の作り方を学んだ。私が手伝おう」
 数珠屋の娘は天台山に示現した羅漢達と共に数珠を作り、五百羅漢は数珠を持つようになりました。

 羅漢は娘に言います。
「この後、私は杭州に向かい、金剛智様と共に長安に向かうが、お前はあそこに見える天女達と共に、長安に向かうがよい。長安で、密教を求めに来られた空海様と出遭うことになる。}
「空海様?」
「そうだ。では、少し後の世の長安でまた会おう」
 数珠屋の娘は二人の天女に迎えられ、雲に乗り長安を目指しました。

※金剛智(671〜741)は中国に密教を伝えた仏教僧です。日本の真言宗では「付法の八祖」のうち第五祖、「伝持の八祖」のうち第三祖とされます。インドにおいて龍智より密教の教えを受け、スリランカからジャワを経て719年に中国の広州(現在の広東省)に着き、翌2020年に唐の都である洛陽に入り、洛陽にて密教を弘めます。

※五百羅漢像について ここで取り上げた羅漢達の姿は大徳寺(京都・臨済宗大徳寺派大本山)に蔵される「五百羅漢像」を模したものです。