数珠の歴史
陽が昇る前、南都・奈良を出立し、お昼過ぎ頃、四天王寺辺りの数珠屋の娘は南山城の木津川のほとりにある笠置寺に着きました。十三重塔の向こうの岩山には巨大な弥勒が彫られており、右脇には弥勒に衣を差し出す摩訶迦葉(まかかしょう)、左には阿難(あなん)が彫られています。娘は数珠を取り出すと、手を合わせ弥勒の名前を称えました。
「よく来られた」
振り返ると、そこには目が輝く一人の僧侶が小僧を連れて立っていました。
「貞慶上人でいらしゃいますか」
上人が微笑みうなずきました。
「弥勒菩薩は釈尊入滅の五十六億七千万年の後、この世に如来として下生し、人々を救ってくださる仏様じゃ」
上人は巨石に刻まれ下生し如来となった弥勒の姿を見上げしばらく手を合わせていました。
「今日、この地に来て頂いたのは、弥勒講式の時の数珠を作ってもらうためだ」
「弥勒講式でございますか」
「伽陀(かだ)を称する時に、特別な数珠を持ちたい」
伽陀と講式(法会)に際して唱える偈文(げぶん)のことです。
弥勒講式は貞慶上人が建久七年(1196)に著したもので、罪障に懺悔すること(懺悔罪障)、弥勒に帰依すること(歸依彌勒)、弥勒が住まう兜率天に往生すること(欣求内院)、臨終に際しては弥勒の来迎があること(正遂上生)、弥勒が兜率天から下生する時には共に付き添うこと(因縁果滿)が記されています。
この中には幾つかの伽陀が記されていますがひとつを紹介します。
仏になった後は、弥勒の名を称え、
広く衆生を済度、済度する人の数は無数である
貞慶上人(1155~1213)はもともと興福寺の学僧として知られ、法相唯識、律の教えに精通していましたが、僧団のあり方に疑問を持ち、笠置寺に移り、笠置寺の中興の祖となりました。
「弥勒、釈迦、観音、春日明神を現す玉を入れた数珠をそなたに頼みたい」
「春日の神ですか」
「春日は我が藤原氏にとっての氏神、釈迦は春日の本地仏」
と貞慶上人は応えました。貞慶上人は藤原南家(ふじわら なんけ)の出身ですが、祖父藤原通憲は平治の乱(1160)で自害、父藤和貞憲は土佐に流されています。南都・春日大社は藤原氏の氏神で、貞慶が深く奉じる神でした。
数珠屋の娘は暫く考えた後、「承知いたしました。これまでの数珠の制式にはございませんでしたが、弥勒、釈迦、観音、春日明神を現す色玉を数珠に配置しましょう」
現在は数珠に四天玉を配置することは当たり前ですが、数珠には元々四天玉は無かったようで、娘は貞慶上人の意を汲み取り、四天となる玉を配することを考えました。
弥勒菩薩というと中宮寺や京都広隆寺の弥勒菩薩をまず思い浮かべる方も多いでしょうが、五十六億七千万年の後にこの世に現れ、人々を救うという信仰がこの時代は濃厚にあり、弥勒の御座す兜率天(とそつてん)の往生するということが、貞慶上人にとっての願いでした。
笠置寺(京都府相楽郡笠置町)は山中、むき出し巨石を辺りに持つ場所にあります。その巨石のひとつには弥勒と迦葉、阿難が刻まれていたことが『笠置寺曼荼羅』(13世紀・大和文華館)により知ることができます。迦葉が弥勒に捧げる衣は、釈尊入滅の際、釈尊自身が迦葉に「弥勒下生の際に渡すように」と託されたものです。『笠置寺曼荼羅』には十三重塔が描かれますが、この塔は貞慶が建立したものです。そしてその傍らには数珠を持つ女性と供の男性が描かれています。この磨崖仏は後の戦乱の中で焼け、多くの部分が崩落していますが、貞慶上人の時代には浮彫・彩色された如来としての弥勒が彫られていました。
※この物語は貞慶上人の肖像を元に、史実を交えたフィクションです
2024.1.12 UP DATE