数珠の歴史
『鳥獣戯画』は甲・乙・丙・丁の四巻から構成されますが、丙巻は前半が人物、後半が動物という特異な構成となっています。以前からこの特異性は謎でしたが、平成の修復により、丙巻は一枚の料紙の表裏に書かれたものを後世、表裏を剥がして一枚に繋げたものであることが判明しました。研究成果によれば、まず表側に人物戯画が描かれ、裏側に動物戯画が描かれたと推定されています。この料紙は杉原紙(すぎはらがみ)と呼ばれる播磨国(はりまのくに)で漉かれたもので、主に文書用、すなわち経典書写などに使われていた料紙です。
『鳥獣戯画』は誰が何の目的で描いたのか分からない絵巻物です。作者としては鳥羽僧正覚猷(1053〜1140)であることがよく言われてきました。覚猷は天台僧で密教図像の集成に努め、絵師の養成にも尽力しました。天台僧としては天台座主に就いたものの三日で退座し、その後は鳥羽上皇が住む鳥羽離宮証金剛院へと移ったことから鳥羽僧正と呼ばれています。
絵師という仕事は平安時代にはすでに確立していたことが、この時代に著された『新猿楽記』から分かります。『新猿楽記』に登場する六郎冠者は絵師であり、墨絵(墨書キ)・彩色・淡絵(だみえ・淡彩)・作絵(つくりえ)・丹調(につくり・絵の具顔料作り)などを行い、山水・野水(野の風景)・屋形・木額・海部(海の風景)・立石を描きます。描くところは屏風・障子・扇子など、とあります。
六郎冠者は「天から授かった才能」と呼ばれるほどの絵師でしたが、『鳥獣戯画』も同じく天から授かった才能を持つ人が描いたに違いありません。
『鳥獣戯画』を巡っては絵仏師が描いたのか、宮廷絵師が描いたのかという議論もあります。例えば平安時代後期に描かれた『伴大納言絵詞』は宮廷絵師である常磐光永(ときわみつなが)が描いたとされます。絵仏師とは仏画などを描く専門の絵師です。
絵師に関して言えば、奈良時代には役所の中に画工師と職制が設けられており、下絵や仕上げなど細かい職制がありました。
『鳥獣戯画』が誰によって描かれたのかは謎ですが、「甲巻」に見える猿の僧正の法要の様子や、丙巻においてこれだけ多くの蛙や猿が数珠を持つ画面を見ると、やはり寺院内部の絵の巧みな者が描いた、というのが分かりやすいと思います。
2022.6.11 UP DATE