数珠の歴史

数珠の歴史(21) 数珠の箱

 数珠を入れる箱は、紙箱や桐箱、ビロード張りの箱などが現在でも使われていますが、数珠を箱に入れる習慣は平安時代にはすでにありました。

 数珠の箱が必ず描かれる図像に「聖徳太子勝鬘経講讃図(しょうとくたいししょうまんぎょうこうさんず)」があります。聖徳太子が推古天皇のために『勝鬘経』を講説する姿を描いたもので、平安時代以降数多く描かれてきました。『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は大乗仏教の仏典のひとつですが、『法華経』や『阿弥陀経』に比べるとあまり知られていません。実際のところ日本における『勝鬘経』は聖徳太子が著したとされる『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』によるところが大きいといえます。

 勝鬘とは勝鬘夫人のことで、釈尊の前で勝鬘夫人が大乗仏教の教えを説き、これを釈尊が仏の教えとして認めるという物語です。
『勝鬘経』の中には「生死は如来蔵に依る」という印象的な言葉があります。如来蔵とは仏性、すなわち仏となる本来具わった素質のことで、『勝鬘経』はこの如来蔵を説き、誰もが仏になる存在であること、そして在家仏教のあり方を示す内容となっています。

 前置きが長くなりましたが、聖徳太子は椅子に座り、机を前にして『勝鬘経』を説きます。その机の上には数珠を入れる箱が必ず描かれます。図像では六葉に象られた箱の中に数珠が見えます。

 なぜ、「聖徳太子勝鬘経講讃図」に必ず数珠の箱が描かれるのかは分かりませんが、この時代には聖徳太子が持していた数珠のことが広く知られていました。この聖徳太子の数珠についてはこの数珠の歴史でも取り上げたことがあります。

源氏物語「若紫」
聖徳太子が百済の国からお得になった金剛子(こんごうし)の数珠に宝玉の飾りのついたのを

源氏物語「若紫」
聖はお守りとして独鈷を光源氏に差し上げ、僧都は聖徳太子が百済から得た、水晶の弟子玉が付いた数珠を、百済伝来の筥(はこ)に入れ、さらにその筥を唐風の洒落た透かして見える袋に入れ、その袋を五葉の松に付けて

 つまり、聖徳太子の百済伝来の数珠は特別な箱に入れられていたのです。

 数珠を特別な箱に入れることは、これまで紹介してきた「栄花物語」や「落窪物語」の中でも見えることです。

栄花物語
皇太后宮(妍子)のお手紙は沈香の数珠を黄金で飾ったものと共に銀の筥(はこ)に入れられ、梅の造り枝に付けられていました。

落窪物語
黄金の箱に菩提樹の念珠を入れて

 銀の数珠筥や黄金の数珠箱は、銀箔や金箔で仕上げらた木製の箱であったかもしれませんが、数珠を持つ人にとって、大切な数珠を入れる箱はとても大切な持ち物でした。

 一つひとつの数珠を、大切に箱に入れ、時に数珠を手に持ち、掌を合わせる。そのように数珠を日々の暮らしの中で持したいものです。