数珠の歴史
前回は藤原道長を頂点とする摂関時代を記した『栄花物語』に登場する紫檀の数珠のことを紹介しました。この紫檀の数珠の持ち主は道長の妻である倫子(964〜1053)でしたが、今回は道長と倫子の娘である彰子(988〜1074)の数珠を紹介します。
藤原彰子は一条天皇(980〜1011)の皇后であり、後一条天皇(1008〜1036)と後朱雀天皇(1009〜1045)の母でもあり「国母」と呼ばれる存在でした。また、『源氏物語』を著した紫式部は彰子に仕えていました。
(原文)
皇太后宮の御消息に、沈の数珠に黄金の装束して、銀の御筥に入れさせたまひて、梅の造り枝に付けさせたまへ (「栄花物語」ころものたま)
(現代語訳)
皇太后宮(妍子)のお手紙は沈香の数珠を黄金で飾ったものと共に銀の筥(はこ)に入れられ、梅の造り枝に付けられていました。
彰子は1026年に落飾、出家します。「沈の数珠に黄金の装束して」と描かれる数珠は妹である妍子(994〜1027)からのもので、彰子の出家にあたっての贈り物でした。妍子は三条天皇(在位1011〜1016)の中宮(皇后)となった御方で、数珠を贈った1026年は後一条天皇の御代でした。
沈香の数珠というだけでも時代を超えて貴重なものです。黄金で装束という表現が具体的にどのようなものであったのかは分かりませんが、弟子玉を黄金にしたものであったかもしれません。また、数珠を涙に喩えており、四天玉に水晶をあしらっていたかもしれません。
この数珠には歌が付けられていました。
(原文)
かはるらん 衣のいろを思ひやる 涙やうらの 珠にまがへん (「栄花物語」ころものたま)
(現代語訳)
お姉様は出家され墨染めに変わったと思いますが、そのことを思い流す私の涙は、衣の裏の宝珠(数珠の玉)と見間違えることでしょう
この歌は『新古今和歌集』にも収められているもので次のような詞書きが付けられています。
上東門院出家の後、黄金の装束したる沈の数珠銀の箱に入れて、梅の枝に付けて奉られける 枇杷皇太后宮
上東門院は姉彰子、枇杷皇太后宮が妹である妍子です。上東門院(彰子)は枇杷皇太后宮(妍子)に返歌します。
(原文)
まがふらん 衣の玉の乱れつつ なほまだ覚めぬ 心地こそすれ
(現代語訳)
数珠の玉にも見える、衣の裏の涙で私の心は乱れ、俗世への思いで夢が覚めない心地です。
沈香の玉の色は出家の証、黄金の玉は俗世への思い、もし四天玉に水晶が使われれていたとしたら涙の喩え、ということになります。
彰子と妍子の父である藤原道長は「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」の和歌と共に知られています。この歌が詠まれたのは1018年10月であるとされますが、この時は長女彰子、次女妍子に続いて三女威子が皇后となっており、権勢を極めた時を詠んだ内容です。
『栄花物語』では出家にあたって、彰子が泣き濡れる様子が描かれています。
彰子が出家した時、仕える何人かの女御も出家しています。出家剃髪の導師となったのは従兄弟にあたる三井寺の永円僧都。父である道長、母の倫子、弟の関白頼通がその場に集まったのですが、彰子がひどく泣くので、そこに集まった方々も涙をこぼします。妍子と彰子の和歌は、その涙を数珠の玉に喩えたものということになります。
彰子の出家にあたっては、仕える弁の内侍(べんのないし)も出家します。この日、弁の内侍は普通に正装し、いつもの通り過ごしていましたが、彰子出家の後に自分の部屋に入り出家し、華やかな姿とはうって変わって数珠を手に提げて現れ、殿方たちの賞賛を受けます。
ささやかにをかしげなる尼君の数珠ひきさげて出で来たるに、あさましうあはれにて、殿ばら、「なほ魂あるものは先ぜられぬべきものかな」といみじう感じのたまはす。(「栄花物語」ころものたま)
受戒出家の後は、皆本当に美しく幸せな様子であったと『栄花物語』は伝えます。
次回は『今昔物語』に登場する「琥珀の飾りを付けた沈の数珠」に絡めたお話を紹介します。
2022.2.1 UP DATE