山田和義の数珠の話
私が小学生の頃、家業の手伝いで、数珠玉の穴の中の研磨を何度も行った記憶があります。玉の穴の中に鋼線を入れ、磨き砂(研磨材)を如雨露で鋼線の上から入れ、上下に「ガタンガタン」と振動させて、玉の穴を磨くのです。何本もの鋼線が枠にはまり、脚踏みで枠を動かして研磨するのです。おそらく1970年の大阪万博の頃までは、その仕事をしていたと思います。
山田念珠堂は、貝細工や珊瑚を加工し、髪飾りづくりを生業(木工・漆塗・彫等)としている家業から始まっています。簪(かんざし)の先に飾りとして付けられる珊瑚玉の加工も主な仕事でした。それらの玉類を戦前は大野屋さんという御店に卸していました。その大野屋さんが数珠を製造していたことから、祖父の山田梅吉が大阪の珠数屋大松で修業し、明治38年に数珠の製造卸売りを始めたのです。玉加工は私の父である山田義郎の時代まで行っていました。
大阪は職人の町で、かつて阿倍野には珊瑚屋が軒を連ねていました。泉州ではガラス玉や貝ボダンが盛んに作られていました。JR環状線には玉造という駅がありますが、まさに大阪の玉加工の歴史を反映した名前です。山田念珠堂の祖先も、そのような大阪の玉職人の一役を担う一人でした。
どうして私自身が玉の研磨にこだわりを持つのか、これでお分かりになると思います。私は小さい頃に自分自身が数珠玉の穴の研磨を実際に行っていたのです。
数珠玉の穴を研磨しないと、穴を通る糸がすぐに切れます。また、糸の太さと穴の大きさのバランスも大切です。昔は数珠屋さんから「これこれの玉、ボサ玉と再穴あけ(穴広げ)玉がいる」と言われる様な注文がありました。しっかりと研磨した玉と、十分に研磨された穴を持つ玉が必要なことは、今も昔も変わりません。
山田念珠堂は普及品としてのディフュージョンラインの販売をスタートさせましたが、それは「玉の研磨」へのこだわりから生まれた数珠です。研磨が十分ではない玉を使い、どうすれば切れにくい数珠が作れるかを考えました。
何度か書きましたが、翡翠や瑪瑙、水晶等の貴石の原石には1級・2級・3級といった区別があり、原石の段階での選別から始まり、玉加工段階での選別があり、一級品としての玉はまさに選ばれた玉で、十分な手間をかけたものです。山田念珠堂は、選ばれた玉を使用した数珠がメインです。
一方、ディフュージョンラインの玉は選別の段階で外されたもので、研磨が十分ではなく、傷もあるのですが、コストが低く、樹脂で含浸コーティングすることで表面を美しく仕上げ、玉の穴の中もコーティングされるので、すぐに糸が切れるということもありませんが、元来、研磨されていませんので、コーティングがハガレルと穴を通る糸が切れやすくなります。
2021.11.28 UP DATE