数珠の歴史
《『枕草子』原文》
それに続きてぞ、尼の車。尻・口より、水晶の数珠、淡墨の下裳・袈裟・衣、いといみじくて、簾は上げず。
《現代語訳》関白道隆の妹で一条帝(第66代天皇・980〜1011)の生母である東三条院詮子の御所車に続いて尼の車が続きます。その尼の車の後ろの降り口から水晶の数珠、淡墨の衣などが見えていますが、その降り口の御簾は下げられたままです。
清少納言が見た一切経供養を行う積善寺へと向かう御所車の隊列の様子です。尼の乗った御所車からは淡墨の衣に加えて、水晶の数珠が見えています。しかし、御所車の簾は閉じられたまま。ということは、わざわざ、水晶の数珠と淡墨の衣を見せていることになります。
数珠は清少納言の時代から、良い意味で人の視線を集めるものでした。つまり、持つことで人に見せる法具、ということになります。
この御所車に乗った尼達は元宮中に仕える女官であったでしょう。しかるべきお家の、しかるべき女性が何かをきっかけに出家し尼になる。彼女達はキラキラとした数珠を持つことを、見せたいのです。尼達の可愛らしい様子が目に浮かぶようです。
美しい数珠は、数珠そのものが自らへの供養となります。加えて、人に見て頂くことにより、数珠に具わる力が強くなります。
お気に入りの数珠を持たれたら、どんどんたくさんの方の目に触れるようにしてください。仏事の時だけでなく、日頃のお出かけの時にも是非お持ちになってください。お手元を彩る特別な数珠となります。
姫 「関白様の一切経のご供養、本当に華やかでしたわね」
姫 「ご供養に向かうは車は合わせて15もありました」
姫 「お天気もよくて、桜も咲いて霞みがかかり、夢のようでした」
姫 「尼女御のお車からは数珠が見えていました」
姫 「私も思わず数珠が外から見えるようにしました」
姫 「えっ?私もよ!」
姫 「今度は彼の公と車に乗って…」
姫姫 「一緒にお揃いの数珠を外にちらりと見せたい」
姫姫 「ねんじゅる ねんじゅる(念珠る)」
今回の積善寺における一切経供養とは、関白藤原道隆が京極の東にあった法興院の中にあった積善寺において994年に一切経の供養を行ったことを指します。『枕草子』の中には「関白殿、二月廿一日にほこ院の積善寺といふ御堂にて一切経供養ぜさせ給ふに」とあります。
2021.10.24 UP DATE