数珠の歴史

数珠の歴史(13) 姫君と公達たちの数珠⑤ 数珠を借りて良い生まれ代わりを願う

清少納言(966〜1025頃)が生きた時代には、すでに「忌日」がありました。

清少納言と同時代の紫式部の「源氏物語」の中には「四十九日の法要」が次のように記されています。

原文(「源氏物語・夕顔」)
かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめて、さるべきものども、こまかに、誦経などせさせたまひぬ。惟光が兄の阿闍梨 いと尊き人にて 二なうしけり。

現代語訳(与謝野晶子訳)
あの人の四十九日忌を、人目を忍んで比叡山の法華堂で、略式にせずに、装束をはじめとして、お布施に必要な物どもを、細やかに準備して、読経などをおさせになりました。経巻、仏像の装飾まで疎かにせず、惟光の兄の阿闍梨が、とても高徳の僧なので、この上ない法事をやってのけたのである。

あの人の四十九日のあの人とは夕顔のことです。源氏物語の主人公である光源氏が愛を交わした女性の一人ですが、物の怪に取りつかれ急死し、光源氏は葬儀を出し、四十九日の法要を比叡山の法華堂で執り行います。

どうして四十九日の法要などが、この時代に広がりを見せたのかは、またいずれ触れるとして、『枕草子』にも忌日という言葉が出てきます。

原文(関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて)
中納言の君の、「忌日」とて、くすしがり、行なひたまひしを、「賜へ、その数珠しばし。行なひして、めでたき身にならむ」と、借るとて、集まりて笑へど、なほ、いとこそめでたけれ。

訳文
中納言の君が、どなたかの忌日命日ということで、真面目にお勤めをなさっていたのですが、ある女官が「その数珠を、ちょっとの間、お貸しください。私もお勤めをして功徳を積んで、次の世には関白殿(道隆)みたいに、立派な身分になりたいものですから」と借りようとしたら、女官たちは集まって笑うんだけど、それでもやっぱり関白道隆さまにあやかることは素晴らしいと思うわ。

中納言の君は女官で、清少納言の同僚です。別の女官がこの中納言の君に「数珠を貸して」とお願いします。えっ?この時代って数珠の貸し借りあったの?と思いますが、借りる理由というのが「関白殿みたいに立派な身分になりたいから」というもので、周りの女官は一斉に笑います。関白とは藤原道隆(953〜995)のことで、道隆の娘が藤原定子。清少納言が仕える主の中宮定子(ちゅうぐうていし)です。中納言の君は関白藤原道隆の叔父さんの娘であり、能吏として知られた源俊賢(960〜1027)がご主人でした。つまり、親戚関係で固められたハイソサエティーな女性達の集まりの中でのおしゃべりということになります。

でも、どうして数珠を借りようとしたのでしょうか。余程素敵な数珠だったと思いますが、この時代の感覚として功徳を積むことで、次に生まれ変わる時には、さらによい人生を過ごしたいという思いがあったに違いありません。数珠を持ち仏道に励むことで、関白になるような良い生まれ代わりを得たい、と女官は言いたかったのです。

「関白道隆様のように生まれ変わりたい」という女官の言葉を聞いた定子は「数珠で功徳を積んで生まれ代わったら、仏様になるわけだから、関白より上じゃない」と言葉を返し、さらに女官たちがわっと盛り上がります。清少納言は中宮定子のこのような機微に富んだやりとりが大好きでした。

中宮定子が言うように、数珠を持ち仏道に励むことが、大切な日々の生活ということになります。

「藤原の公さまのお珠数素敵よね」
「この間の一切経供養の時にお持ちになっていた数珠ね」
「そうそう」
「実は私、公様に数珠をお貸し下さいってお願いしたの」
「えっー、うそでしょう。信じられない」
「公さまはね、和歌を添えてお貸し下さったの」
「私もどなたかに数珠をお願いしたい」
「そうしたら一緒に」
「ねんじゅる ねんじゅる(念珠る)」