数珠の歴史

数珠の歴史(9) 平安王朝・姫君と公達(きんだち)の数珠①

これまであまりに見ることのない二千円札でしたが、その裏面には『源氏物語絵巻』の「鈴虫」の詞書き(ことばがき)が記されています。この『源氏物語絵巻』の原画は五島美術館(東京都世田谷区)が蔵するもので、藤原隆能(?~1126~74?)が描いたものと伝えられています。『源氏物語』の作者は紫式部(970頃〜1019頃)で、『源氏物語絵巻』は紫式部の時代より約150年後に描かれたものです。

二千円札の『源氏物語絵巻・鈴虫』の詞書は一部のみが記されており、全体では以下のような内容となります。

すゝむし
十五夜のゆふくれに 佛のおまへに宮おわしては しちかくのなかめ たまひつゝ念珠したまふ わかきあまきみたち二三人はなたてまつるとて あかつきのおとみつのけはひなと…
現代語訳 / 鈴虫 八月十五日の夕暮れに、佛の御前に女三の宮がおいでになって軒庇近くを眺めながら念仏を誦しています(詞書きのままであれば念珠を執っておられます)。若い尼が二、三人で佛のために花を供えようとして閼伽杯(あかつき)の音などをさせて…..

柱を背にするのが光源氏(右)。相対するのは冷泉宮(左)で、月見の宴を描いた場面です。原画では光源氏の手前に四名の公達(きんだち)が管弦に興じている姿も描かれています。冷泉宮は光源氏と藤壺の間にできた子供ですから、親子対面のシーンでもあります。文中の女三宮は光源氏の妻ですが、柏木との間の不義の愛の渦中にあり、柏木と間にはやがて薫が生まれます。

二千円札の裏の文字からは「念珠」という文字が読み取れますが、『源氏物語』での本来の表記は「念誦」で、二千円札の『源氏物語絵巻』の「念珠」は書き違えということなります。ですのでこの部分の現代語訳は伝統的に『源氏物語』の原文に沿って「念仏を誦する」とされてきました。与謝野源氏でも、谷崎源氏でも同様の訳になります。「念珠したまふ」ですと直訳は「念珠されていた」で、意訳をしても「念珠を執られていた」ということなり、原文と詞書きで意味が違ってくることになります。

 では何故、『源氏物語絵巻』の詞書きでは『源氏物語』にある「念誦」を「念珠」と書き違えたのでしょうか。たまたま、文字を間違ったのでしょうか。それとも「誦」と「珠」の発音を掛け合わせて意図的な書き違いをしたのでしょうか。とても興味深い箇所です。
 文脈で言えば『源氏物語絵巻』の詞書き「念珠したまふ」の念珠は動詞の役割を果たしています。前述の通り意訳で「念珠を執られていた」、直訳で「念珠されていた」ということになります。「念珠されていた」の構文は、「お茶を頂く」が「お茶する」となるのと同じで、ここから想像を広げると以下のような会話が成り立つことになります。

 「ねえ、明日、光源氏様が来られて念珠されるのよ」
 「えっ?そうなの?私もご一緒に念珠したい」
 「私は明日の念珠のために、新しい数珠を揃えたの」
 「水精の数珠で念珠したーい
ねんじゅる ねんじゅる」(念珠る)

 誦と珠の音が一緒なために、念誦と念珠が混ぜ合わせになっているのですが「いとをかし」な感じです。

 念珠という用語はすでに最澄によって用いられていますが、実は『源氏物語』の中に「念珠」という言葉を見付けることはできません(数珠であれば約10カ所)。念誦は十カ所以上登場します。ですので、繰り返しますが、本来は念誦であるべきところが、二千円札の『源氏物語絵巻』の詞書きは、わざわざ「念誦」を「念珠」にしているとも思われます。この書き違えにより、この時代、平安時代から鎌倉時代にかけての数珠(念珠)のあり方も見えてくるようにも思われます。

これから数回は「平安王朝・姫君と公達(きんだち)の数珠」を掲載します。