数珠の歴史

数珠の歴史(8) 東大寺に見る数珠

  前回までで、空海と最澄と数珠の関わりについて紹介してきましたが、空海と最澄が生まれた奈良時代の数珠のことについて、もう少し記しておきたいと思います。

 空海と最澄は入唐前に数珠を見たこと、もしくは手にしたことがあったでしょうか。二人とも数珠のことは知っていたと思います。奈良時代の数珠に関しては第2回で「琥珀念珠」を、第3回では奈良時代初期にはすでに「木槵子経(もくけんじきょう)」と「校量珠数功徳経(こうりょうじゅずくどくきょう)」が日本に伝わってきたことを紹介しました。空海も最澄も入唐以前にすでに数珠のことを知っていたと思われます。そして実際に数珠を見ることがあった、と想像したいと思います。
 空海が生まれたのは774年(宝亀5)、最澄が生まれたのは767年(神護景雲元)ですが、「東大寺献物帳」すなわち正倉院に蔵された御物の目録にはすでに念珠の記載があります。
 756年(天平勝宝8)の項では以下の念珠が御物として挙げられています。
純金念珠一具
白銀念珠一具
瑪瑙念珠一具
水精念珠一具
琥珀念珠一具
真珠念珠一具
紫瑠璃念珠一具
 これらの数珠は、天平勝宝4年(752)東大寺の大仏(毘盧遮那仏)の開眼供養に合わせて揃えられたものと思われ、七具の数珠は即ち仏教の七宝を表現したものだったに違いありません。

 

 東大寺の大仏(毘盧遮那仏)の開眼供養が執り行われたは天平勝宝4年(752)のことです。また、鑑真が来朝したのは天平勝宝5年(753)のことです。これらの念珠は、一体どこからもたらされたものだったのしょうか。

 「造仏所作物帳(正倉院文書)」天平6年(534)の項には以下にような記載があります。瑠璃雑色玉のイメージはここをクリックして下さい。
 練金小十三両一分五朱
 銀一両
 瑠璃雑色玉一四九八枚
 水精玉二枚
 瑠璃雑色玉四二六十枚(丸玉二七六枚 捩玉十八枚 小刻玉三千九百六十六枚)
水精玉十五枚
 琥碧玉二十三枚
 瑠璃雑色玉二四万三千五百九十枚
 真珠玉四千三百七枚
 

天平勝宝8年(756)の「佛像雑具請用帳」には以下の記述があります。

着紫丸組緒以真珠瑪瑙及紫石造巣納玉数惣四百十六玉
三百九十六丸真珠 十四丸瑪瑙 六丸紫石

 紫の編まれた緒には396玉の真珠、14の瑪瑙玉、6の紫玉が通され、この緒は一寸六分の純金の観音菩薩像を安置する納殿(厨子のことか?)に掛けられていたものと思われます。納殿は一重の琥碧と一重の白檀で飾られ、観音菩薩像の御座は琥碧と水精で飾られていました。

 こうした文書に記されている水精、瑪瑙は日本で産出され、日本で加工された可能性が高かったと思われます。

 ここをクリックしてご覧頂ける雑色瑠璃玉は日本で製作されたものと推定されています。


「正倉院文書」の「出雲国計会帳」天平5年8月19日の条には
 進上水精玉壱伯伍拾顆
 進上水精玉壱百伯顆
という記載を見ることができます。水晶150玉を進上(納める)、水晶100玉を進上という内容ですが、出雲国で産出加工されていた証左です。
 正倉院には様々な水晶玉が現在も蔵されています。丸玉はもちろんのこと、平玉、切子玉、面取玉、棗玉などがあり、「露玉」と呼ばれるものは、煙水晶と呼ばれる黒水晶もあります。
 正倉院には瑪瑙の杯も蔵されています(ここをクリック)。この瑪瑙杯は大仏開眼会に献納されたもので、赤瑪瑙の塊を刳り、研磨したもので、黄褐色の中に黒の斑紋が混じる長径12㎝、短径8.2㎝、高さ5㎝の大きさのものです。

 島根県八束郡玉湯町にある史跡出雲玉作跡には瑪瑙産出の跡が遺りますが、古墳時代から日本では瑪瑙(碧玉)、翡翠、水晶の玉加工が行われ、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などが作られていました。それも相当高度な研磨技術、そして穴を穿ける技術がすでにあったことが、学術調査の結果分かっています。 

 金・銀に関してはこの時代すでに国内で産出されており、奈良・東大寺の大仏建立にあたっては、大量の金が使われました。
 またガラスを溶融して器や玉に仕立てる技術も奈良時代までには確立しており、正倉院にはガラス溶融の際に出たかけらがあります。

 こうしたことから奈良時代には、すでに数珠を作る技術が十分にあったと思われます。