数珠の歴史

数珠の歴史(1) 十一面観音菩薩像の右手の数珠

十一面観音菩薩像(東京国立博物館)

 東京国立博物館像の十一面観音菩薩像は665年(天智4)に藤原鎌足の長男である定恵が唐の留学から帰国した際に請来されたものとされています。白檀一木造りで尊顔はインド・グプタ王朝様式を思わせものですが、右手には数珠が巻かれています。もちろん一木の白檀から像容と共に彫り出されたものです。

 法隆寺・大豊蔵院に安置される九面観音の右手にも数珠が巻かれています。719年(養老3)に唐から請来されたこの観音像は白檀の一木造り。つまり、数珠も白檀から彫刻されていることになります。では、どうしてこの二体の観音像に右手には数珠が巻かれているのでしょうか。

 玄奘三蔵(602〜664)は629年に唐から印度へと向かい645年に唐の都長安へと戻ってきます。携えてきた経典は657部。この中に含まれる『十一面神呪心経』は656年(唐の顕慶元年)に訳されましたが、その中には「栴檀(白檀)を使って」「数珠を掛けて施無畏手とせよ」という一文があり、上の二体の観音像はこの『十一面神呪心経』に沿って作られたことが分かります。つまり、玄奘が渡ったインドにはすでに数珠の形式があったことが推測され、その数珠を持つ観音像が唐で作られたのです。

應當先以堅好無隙白栴檀香。刻作觀自在菩薩像。長一搩手半。左手執紅蓮花軍持。展右臂以掛數珠。及作施無畏手(玄奘訳)

この『十一面神呪心経』は密教系の経典ですが、不空三蔵(705〜774)はインド南部の出身で714年、唐の都長安で金剛智(671〜741)に就き密教を学び、741年に密教の根本経典である『大日経』と『金剛頂経』を求めてセイロン(スリランカ)に渡り、そこで龍智より胎蔵界と金剛界の両部の潅頂を受けます。多くの密教経典を携え唐に戻ったのは746年。この不空三蔵が訳したのが『十一面観世音神呪心経』。数珠については、次のような一文が見えます。

若欲成就者。以堅好無隙白檀香。彫観自在菩薩身、長一尺三寸。作十一面頭四臂。右邊第一手把念珠。第二手施無畏。左第一手持蓮華。第二手執持。(不空訳)

ここでは四臂の十一面観音で、右手に念珠(数珠)を持つことが記されています。

十一面観音菩薩像側面(東京国立博物館)