数珠の歴史

数珠の歴史(5) 空海と数珠(2)浄明珠の登場

 前回は、空海が入唐中に唐の皇帝より下賜された菩提実の数珠のことを紹介しましましたが、この菩提実数珠は南北朝時代の『園太暦』には東寺の菩提子念珠として紹介されています。
 『園太暦』は洞院公賢(1291〜1360・とういんきんかた)によって著された日記で、貞和4年(1347)6月17日に隆蔭卿(四條隆蔭・1297〜1364)から菩提子念珠のことを聞いたという次のような話が紹介されています。
「八条戒光寺の長老が言うには、弘法大師が唐に渡った時、宋の順宋皇帝より菩提子の念珠を賜り、今では東寺の大切な宝となっている」という内容のものです(宋というのは間違いで唐が正しい)。すなわち、南北朝時代にはこの菩提子念珠のことが知られていたことになります。 

 空海の肖像は必ず左手に数珠を、右手に五鈷杵を持ちます。この弘法大師の御影は真如様と呼ばれるもので、弟子たちが師に「肖像を残すのであれば、どのようなお姿に描けばよいのでしょうか」と尋ねたところ、空海はあるべき姿を伝え、描くことに長けていた真如親王(高岳親王・799〜865)がその姿を肖像にしたと伝えられています。

 この肖像は高野山・御影堂に安置されていますが、秘仏であるため特別な修行を了えた者しか拝することができません。私達が現在見ることのできる空海の御影は高野山御影堂の御影を底本として写されたものです。最もよく知られたものが金剛寺(大阪)のもので、第三転写本であるとされ、製作されたのは鎌倉時代(12世紀後半)と推定されています。

 東寺に伝わる「談義本尊」と称される空海の御影もよく知られており、描かれた数珠の様子もよく分かります。「談義本尊」は正和2年(1313)に後宇多天皇が施入したもので背もたれのない牀座に坐すお姿です。空海の御影として実際に見ることのできる最も古い金剛寺本は一部を欠損しており、復元及び現状模写を見ると数珠の様式は「談義本尊」とほぼ一致しています。

「談義本尊」に見る数珠は、おそらく菩提子と水晶を組合せたもので、前回そして冒頭で述べた皇帝から下賜された数珠とは、菩提子と水晶の組合せが異なりますし、弟子珠の構成も異なります。
 それでも、御影が執る数珠は、もしかしたら皇帝から下賜されたものではないか、と想像することもできます。描かれた数珠は当時の数珠のままですが、東寺に現存する菩提子数珠は修理され玉が組み替えられている可能性もあるからです。

「談義本尊」に見る数珠で非常に興味深いことの一つは、浄明珠が描かれていることです。高野山御影堂の御影の数珠に浄明珠があるかどうかは分かりませんが、少なくとも鎌倉時代には現代の数珠の様式に繋がる浄明珠が付けられていたのです。

 また、弟子珠先の露(つゆ)には金具が付いていることにも目が惹かれます。

 平安時代末期から鎌倉時代以降は高僧の肖像がよく描かれた時代で、この時代に描かれた高僧の肖像がどのような数珠を持つのか、いずれ紹介してゆきます。