数珠の歴史

数珠の歴史(7) 最澄と数珠

平安時代の仏教は最澄(776〜822)と空海(774〜835)によって彩られ、この二人によって日本仏教の基が作られましたが、最澄と空海は同時代の人であり、同じ遣唐使船団(第18次)で入唐、最澄は第一船、空海は第二船で唐に向かいました。日本に帰国後も、最澄と空海は交流がありましたが、最澄は天台宗と大乗菩薩戒のシステムを日本に導入するために入唐し、空海は密教を学び日本に伝えるために入唐したという目指すところの違いがありました。

最澄は唐で天台宗の教えを学び、そして密教を付法され、帰国後にその地より持ち帰った経典などの目録を著しました。天台宗の教えを中心とした目録は「台州録」と呼ばれ、密教の教えを中心とした目録は「越州録」と呼ばれています。台州(浙江省台州市)とは天台宗の本拠地である天台山のある場所です。越州は現在の浙江省紹興市あたりです。

この「台州録」と「越州録」には数珠のことが記されていません。空海が唐から持ち帰った経典や法具の目録である「請来目録」にも数珠の名は記録されていませんでしたが、「請来目録」の中の物語の中では皇帝より数珠を賜ったことが記されています。請来すべき中心となるのは経典なのですが、数珠は多分にパーソナルなものであったのかもしれません。

最澄が唐から請来した経典や法具などを記したものには「台州録」「越州録」とは別に「比叡山最澄和尚法門道具等目録」と称されるものがあり、最澄自筆の部分が僅か11行ながら現存しており、現存冒頭の「羯磨金剛二柄」を取り「羯磨金剛目録」と呼ばれていますが、この中に最澄自筆で「念珠」の文字を見ることができます。僅か十一行の現存部分で最澄自筆の「念珠」の文字が遺されていることは奇跡ともいえます。

「水精念珠一貫 小珠具足  蓮子念珠一貫 水精母子并小珠具足 
巳上二念珠永納鎮国道場 上件念珠盛漆泥皮莒」

水精(水晶)の念珠一貫には小珠が付けられ、蓮子の念珠一貫の母珠(親珠)は水精で小さな珠が付けられており、この念珠を永く鎮国道場(比叡山延暦寺)に納める、これらの念珠は漆を塗った筥(はこ)に納められている、と最澄自らが書いています。小珠は弟子珠のことを指しているのでしょうか。

羯磨金剛に関しては「越州録」の中にも記されており、「羯磨金剛目録」にも唐から持ち帰ったことが記されていますが、念珠が唐から持ち帰ったものかどうかはわかりません。
少し話がそれますが最澄は越州で真言の教えを学びますが、最澄自身が真言の教えのことを「念誦」とも呼んでいることです。下に掲載した「越州録」では真言の教えを「念誦法門」と記しています。「念誦」という用語そのものは平安時代の文書を見ると「真言による祈禱」の意味で使われていますが、「念珠」という用語と音が重なるだけに興味深いところです。

最澄は数珠に対して念珠という言葉を用いていますが、この時代からすでに念珠と数珠という二つの用語が混在していたことが分かります。第一回の連載で紹介した『十一面観世音神呪心経』では念珠、第三回の連載で紹介した奈良時代にはすでに日本に伝わっていた『校量数珠功徳経』では数珠です。

最澄の肖像は空海の肖像と異なり、数珠を持ちません。上に掲載した最澄の肖像は平安時代(11世紀)のもので、止観の姿です。日本の天台宗の高僧肖像で数珠を持つ姿で描かれるのは恵心僧都(源信・942〜1017)以降で、鎌倉時代以降に描かれた肖像を待たなくてはなりません。

次回は少し時代を戻り、東大寺献物帳(正倉院御物)に見る「念珠」や玉石のことに再び触れたいと思います。