数珠の歴史

数珠の歴史(6) 空海と数珠(3)入定した空海が持した珠数

空海は835年(承和2)4月22日に入定します。入定とは生きた身のまま、この世にあり続け、法を説き弘めることを言いますが、寂した空海に対して特に使われる用語です。入定という言葉は、空海が著した『性霊集』の中に見えるもので「於紀伊国伊都郡高野峰被請乞入定所表」の上奏文、すなわち朝廷に高野山の地を賜らんことを願い出た際の上奏文によるものです。

空海の尊身は石で囲まれた廟窟の中にあるとされていますが、『今昔物語』には東寺の観賢(854〜925)がこの廟窟の中に入り、空海の姿と出合う物語が記されています。

かの山に詣でて入定の洞を開きたりければ、(廟窟の中は)霧立て暗夜の如くにて、つゆ見えざりければ、しばらくありて霧のしづまるを見れば、早く御衣の朽ちたるが、風の入りて吹けば、塵になりて吹き立てられて見ゆるなりけり。塵しづまりければ、大師は見えたまひける。御髪は一尺ばかり生ひておはしましければ、僧正自ら水を浴び、浄き衣を着て入りてぞ、新しき剃刀をもつて御髪を剃りたてまつりける。水精の御念珠の緒の朽ちにければ、御前に落ち散りたるを拾い集めて、緒をすぐすげて御手にかけたてまつりてけり。御衣清浄にととのへまうけて着せたてまつりて出でぬ。僧正自ら室を出づとて、今はじめて別れたてまつらむやうに、おぼえず泣きかなしまれぬ。その後は恐れたてまつりて室を開くことなし。

観賢が空海の廟窟に入ると、最初は霧が立ったように全く見えなかったが、風が入ると霧が消え、入定した空海のお姿が見えましたが、そのお姿は髪の毛が30㌢ほど伸びていたので、観賢は水を浴びて身を清め、新しい剃刀で髪を剃り、水精の数珠が切れていたので、数珠を直してその手にかけ直したというものです。
つまり空海は水精(水晶)の数珠を手にして入定していたのです。

高野山は空海の入定後、荒廃しましたが、その高野山を立て直す布石を打ったのが観賢であるとされています。『今昔物語』に登場する空海のお姿は、弘法大師信仰が生まれる一端であったとも解釈されていますが、とても興味深いものがあります。